西洋リンパ研究史
前回のLessonではリンパという名前の由来や発音の変遷について触れていきました。リンパ研究についても、そのさわりの部分だけを由来に絡めて少し紹介するという形になりましたが、前回述べたとおり、西洋では宗教的な事情により1000年ほど停滞していました。
リンパ研究が本格的に動き出すのは17世紀に入ってからです。その端緒となるガスパロ・アセリの発見から、西洋のリンパ研究史を紐解いていきましょう。
乳び管の発見
数あるリンパ管の中でも代表的なものの一つと言える乳び管を発見したのは、北イタリア・パヴィア大学解剖学・外科学教授であったガスパロ・アセリです。1622年、彼は犬の解剖を行った際に様々な白い管を見つけ、その後も様々な動物の解剖から知見を得ていきました。彼のリンパ管研究に関する成果は、彼の死後、1627年に2人の友人によって図版として発表されることになります。
胸管を発見したのはフランスの外科医ジーン・ペクエです。彼もまた犬の胸腔を切り開いて心臓につながる太い血管を切断し、ミルク状の液体を発見しました。彼は解剖学の知見を動員し、胸管と乳糜管がつながっていることに気付いたのです。1651年、彼はパリにてこの事実を発表しました。奇しくもかつてイタリアのバルトロメオ・エウスタキオが公表した事実の再発見となりました。
同時期にはバルトリン腺で有名なバルトリン、オランダの内科医ジョン・フォン・ホーンもまたリンパ管に関する事実を発表しています。一方、スウェーデンのオラウス・ルードベックもまたバルトリン同様にリンパ管を発見し、1653年の論文でリンパ管の体系づけを発表しています。
リンパ管の発見という功績の話となると、バルトリンとルードベックのどちらに優先権があるかは定かではありません。ただ、リンパ系の機能という観点から当時の発表内容を精査した場合は、より系統だって精密なルードベックの記載に軍配が上がるようです。
ミルクを注入してリンパ管を見る
リンパはそもそも白い透明感のある液体ですから、リンパ管も血管と違って観察するのが難しい器官でした。ゆえにリンパに関する新しい発見は偶然によるものが多かったのですが、17世紀にリンパ管の存在が明らかになってからというもの、観察するための手法が色々と出てきます。
よく使われた方法は、空気やミルクの注入でした。17世紀頃には様々なものをリンパ管に注入して外部からの観察ができるように工夫が凝らされましたが、その最たるものはアントニオ・ヌックの残したリンパ管解剖図鑑です。彼が使ったのは水銀溶液でした。
これらの観察手法が広まると、リンパ研究は時代の雰囲気にも後押しされ、加速度的に進んでいくことになります。
18世紀終わりごろになると、イギリスのウイリアム・クリックシャンクが屍体のリンパ管を解剖し、リンパに関する包括的な書籍を刊行しています。リンパ管解剖の銅版画を残したパウロ・マスカーニはリンパ浮腫についてもリンパ管の閉塞や弁構造の不備が原因となりうることを理解していたようです。
アントニオ・ヌック同様に水銀を使って人間のリンパ系に関する体系的な著書を出したのがフランスのシャピーです。人間の胎児を利用した彼の研究は、今でもリンパ管系の肉眼解剖学の基礎として位置づけられており、シャピーはその功績をもってリンパ管研究における最大の功労者となりました。
ゲロータ法の登場
顕微鏡やリンパ管注入剤の開発などの開発によってリンパの研究は新しいステージに移ります。19世紀末、ルーマニアのゲロータは油性色素を使った注入剤を用いる新しい観察研究法を発表しました。
「ゲロータ法」という名前のついたこの手法はその後のリンパ研究で盛んに使われるようになり、1909年にはポール・バルテルスがこれを使用したリンパ管解剖の研究成果を発表しています。同じく1967年には、シュパルテホルツとスパネルがリンパ管に関する詳細な解剖図譜を発表しています。
ただし、この方法は成人には適用しづらく、胎児を必要としていました。医学倫理や検体の問題(どうやって胎児の遺体を入手するか?)から難色を示されるものであることは疑いようもなく、現在ではゲロータ法のようなやり方でリンパを肉眼で観察する研究については下火になっています。
それらの研究については、日本が戦後、いくつもの成果を残しています。次回のLessonでは、日本におけるリンパ研究の歴史を俯瞰してみましょう。