Lesson3-3 日本におけるリンパ研究史

出島から始まるリンパ研究

『解体新書』の登場

日本にリンパ学が入ってきたのは江戸時代後期のことになります。Lesson3-1で触れたように、この頃の日本は鎖国状態でしたが、出島ではオランダと貿易を行っており、そこから西洋の先進的な学問を取り入れていました。

最初にリンパという言葉を輸入したのが誰かは分かりませんが、リンパ研究の端緒となるものといえば、やはり杉田玄白の『解体新書』でしょうか。原典はドイツ人医師の著書”Anatomische Tabellen“で、これが18世紀後半に前野良沢杉田玄白中川淳庵らの手に渡ります。

原書の”Anatomische Tabellen”はアナトーミッシェ・タベレンと読み、扉絵にはラテン語で”Tabulæ Anatomicæ”(タブライ・アナトミカイ)と明記してあります。これがなぜ「ターヘル・アナトミア」と呼ばれるようになったかは謎に包まれていますが、訳出された『解体新書』の中では「ターヘル」は、「アナトミイ」は解剖の意味である旨が記されているので、杉田玄白らもそのような意識のもとに翻訳を行ったのでしょう。

さて、『解体新書』自体は解剖学の本なのですが、その中にもリンパ系に関する記述はあります。リンパ管は水道(スイドウ)と記され「乳びが流れることもある」と明記されています。他にも、胸管に相当するゲール管、乳び槽を意味するゲールクワキウなど、名前こそ異なりますが現代のリンパ系でも正しいと認められる事実がいくつか記載されています。ちなみにゲールとはオランダ語で乳びの意味です。

とはいえ当時はまだ人体の解剖が積極的に行われていた時代ではありませんので、西洋医学との知識のすり合わせは完璧なものではありませんでした。『解体新書』は日本におけるリンパ研究の火付け役ではありましたが、決定版ではありません。そもそも当時は人体解剖自体が稀で、キツネやカワウソなどの解剖から間接的に人体を研究するという形が取られていました。

『解体新書』から盛り上がるリンパ研究

1805年にはオランダ語の医学書を編集した『和蘭内景医範提綱』という本を宇田川玄真が出しており、付図『内象銅版図一巻』は解剖図譜として『解体新書』をはるかに上回る精度のものになっていました。

その後、1812年には日本で始めてリンパ管を見て書かれたとされる『解観大意』という本が出ます。ここでは乳び管から胸管へのリンパ管のつながりが「乳ビ管ノ腸ヨリ起テ鎖骨下静脈ニ貫通スル処ヲ諦ニ観ルコトヲ得タリ」と記述されています。

また乳び管については人体解剖によって確かめられたとされる『解臓図賦』(1822)、なども刊行されており、オランダからもたらされた西洋の知見を噛み砕くようにリンパ研究が進んでいったことがよくわかります。また、『解体新書』も時代が下るにつれて改訂され、一部の記述が正確なものに変わっています。

しかし、『解体新書』やその出版前の広告(人体解剖図がわずかながら載っていたのです)などを機に広がったリンパ管研究は、西洋ほどではありませんが、その後100年近くに渡って歩を緩めてしまいます。何があったかは定かではありませんが、次に日本でリンパ管研究が盛んになるのは、20世紀のことになります。

現代日本のリンパ研究

1953年、リンパ学においてきわめて重要とされる『日本人のリンパ管系そのⅠ、日本人の胸管』が出版されます。

これは京都大学解剖学部初代教授である足立文太郎の研究の成果の一つです。彼は血管系やリンパ管の形態的研究を、そして2代目解剖学教授である木原卓三郎もゲロータ法を用いた研究をそれぞれ行い、足立が前述の本を、そして木原が1963年に『日本人のリンパ管系そのⅡ』を出版するという運びになりました。リンパ管の途中に関所のように存在するリンパ節の存在が明らかになったのは、彼らの研究の成果です。

同時代の研究としては、同じく京都大学解剖学教授である舟岡省吾がリンパの化学的組成を明らかにしています。また少し時代が進むと、生理学の分野で西丸和義によるリンパの運動生理やリンパの生理的意義に関する研究が行われています。

リンパ管の運動生理学に関しては1980年代における循環生理学の成果として認知されています(リンパ微小循環生理学)。その後の日本のリンパ学に関しては、リンパ輸送に関する分野リンパ説の免疫に関する分野リンパと癌の転移に関する分野などが主として研究されていると見てよいでしょう。