Lesson4-3 マッサージの立役者たち

マッサージの立役者たち

西洋のマッサージは長らく民間療法としてその歴史を積み重ねてきました。言い換えれば、その治療効果こそ認められていたものの、医療としての地位を与えられていなかったということです。

しかし、現代の医学を見れば明らかなように、マッサージは通常医療の場でもリハビリの一環として取り入れられていますし、日本でも医師免許の持ち主はマッサージを業とできます。

そう考えると、長い歴史のどこかでマッサージの地位が回復・あるいは向上したことは明らかです。いったい誰がその立役者となったのでしょうか?

今回のLessonでは、不当に低いままであったマッサージの地位を回復させるのに貢献した二人の人物について見ていきましょう。

アンブロワーズ・パレ

王室外科医と床屋医者

16世紀、フランスでマッサージが盛り上がるきっかけを作ったのは、アンブロワーズ・パレ(Ambroise Pare,1510-1590)という人物です。彼はフランスの王室公式外科医であり、近代外科の発展になくてはならない人物なのです。

彼はもともと身分の低い床屋医者でした。床屋と医者に何の関係があるのかと疑問に思う方もおられるでしょうが、実は中世ヨーロッパでは、医者といえば内科医のことをさし、外科医は理髪師が兼任することが多かったのです。今でも理髪店に行けば赤青白の三色がくるくる回る看板(サインポール)を目にすることがあると思いますが、あの赤と青は動脈と静脈を表しているという説もあるほどです。

ただし、床屋医者は大学での医者とは別物として区別されていましたので、本来なら王室の外科医になるようなことはありません。では、アンブロワーズ・パレはなぜそのような地位を獲得したのでしょうか?

その生い立ちや人となりを少しだけお話しましょう。

床屋医者、戦場で身を立てる

パレの数奇な運命を見ていきましょう。彼は1533年から36年にかけてパリで見習いとして医学を学び、その翌年から軍医としてフランスのトリノ遠征に従軍し、兵士の治療にあたるようになります。彼が医者として大きな一歩を踏み出したのはこのころのことです。

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当時は、銃創に対して煮えたぎった油で傷口を塞ぐ灼熱止血法という治療法がメジャーでした。パレも同じように灼熱止血法を用いて兵士の手当てを行っていましたが、けが人があまりに多過ぎたため油を切らしてしまい、間に合わせとして軟膏を用いて治療を行うことにしたのです。

これが驚くほどに効果てきめんでした。パレの軟膏を用いた治療は苦痛が少ないこと、予後の調子もよいことから灼熱止血法に変わる治療法として採用されることになり、パレの名声も一気に高まりました。パレは他にも血管を直接糸で縛る「血管結紮法」を考案するなど、外科治療の歴史におけるターニングポイントとなる治療法を手がけています。

パレの名声は、1582年に刊行された『大外科学全集』により確立されることになりますが、それ以前から、1545年の銃創治療に関する論文、1561年の人体解剖に関する論文などですでに外科医としては充分な名声と地位を得ていました。その証拠に彼はフランス王シャルル9世の筆頭外科医に任命されています。一介の床屋医者が国王の侍医にまで上り詰めるというのは大変珍しいことで、彼の功績がいかに大きかったかがよくわかります。

また、人となりもとても優しく、彼自身は己の無力さも知っていました。ゆえに「我包帯し、神癒したまう」という名言も生まれます。また、シャルル9世に特別な治療を求められたときも、患者を特別扱いして差をつけることはできないと断っていますから、平等を重んじる人物でもあったのでしょう。

従軍医としても外科医としても大変な功績を残したパレですが、最初に述べたとおりマッサージを世に広めた人物でもあります。パレはマッサージの効能、必要性を説き、医療術を研究し、フランス中に、そしてヨーロッパに広めていきました。かつてヒポクラテスが成し得なかったことを、彼はおよそ2000年近く経って成し遂げたのです。

パー・ヘンリック・リン

マッサージの新たな地平を切り開く人物が現れたのは、アンブロワーズ・パレの登場からおよそ200年が過ぎたころのことです。スウェーデンにパー・ヘンリック・リン(Per Henrik Ling,1776-1839)という人物が現れました。

リンはもともと医師でもあったのですが、今では「スウェーデンマッサージの父」「スウェーデン体操の父」として知られています。彼は1799年に設立されたフランツ・ナフテガル体育研究所でドイツの体操方法を、デンマークでは解剖学を……といった具合に世界各地を旅して周り、マッサージや体操に関する知見を広めています。

その目的は、独自のマッサージシステムを確立することでした。1813年、国王から「子どもから大人まで全ての人を健康に導くものを考案せよ」と指示を受け、スウェーデンで唯一となる保健体育教師・マッサージ師を養成する専門学校「体操中央研究所」をストックホルムに設立しました。彼は大国から繰り返し攻められ疲弊するスウェーデンの兵士や国民を元気にするためのものとして、マッサージを提唱したのです。

スウェーデン式マッサージの誕生です。

リンの意思を受け継いだ者たち

リンの編み出したマッサージは、現代のオイルマッサージの源流として、少しずつ形を変えながら受け継がれていくことになります。運動機能の向上、病気予防・回復への効果・影響に関する科学的な研究が進み、1962年にはアクセルソンというセラピスト養成機関が設立されました。

アクセルソンが導入したのは筋肉療法と呼ばれるもので、これは筋肉の緊張をほぐすことを狙いとしています。そのため、この教育機関では1978年から筋肉解剖学・運動機関の研究に注力し、成人のみならず赤ちゃんや動物に対するマッサージなど、幸福と癒しを目標として手広く教育の出来るシステムを作り上げていきました。

もちろん、本国のみで継承されているわけではありません。リンのスウェーデン式マッサージは、アメリカやヨーロッパ、そして世界へと広がっていきました。